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    房一は手足を洗ふと、簡単に診察着をひつかけて表へ廻つた。

    小谷はしばらく放つていた糸を手許にひきよせて、水の中の鮎を眺めながら云つた。

    もともと口下手ではあつたが、まだ舌がもつれる風で、一口ごとに息をついて云つた。

    「困つたもんだね」

    徳次はこの往診といふ言葉がさきほど河原で房一の口から聞いた時に突然耳新しく身近かに響いたのを思ひ出しながら、それを口にするのを楽しむやうにつけ加へた。

    「うちへもかね」と訊いて置きながら、その自家うちへ寄つて行けとも云はない。房一はふと庄谷の眼尻が人並より下つて、そこが特長のある皺になつているのを認めた。その皺の奥から時々庄谷の眼がこちらの顔を撫でるやうに見ていた。さつきから何度も微笑したやうに見えたのは、この皺のせいかもしれない。

    「あの人はつまりこんな風な人なんだわ。こんな風に――」

    読経がはじまつた。皆話をやめてその方を向いて坐り直した。

    「化物が出た……」と、根津は笑った。「どんな物が出た。」

    と、おづおづ答へた。

    今の家は比較的街に近くて、この上もなく閑静だ。私の書斎の下は音無川で、一方は水田であり、自分の家の物音以外は殆ど音というものがない。その上、温泉もあるというから、非常にぬるい温泉だと仲介者も差配も家主も念には念を入れてダメを押したのを承知の上で越してきた。

    房一は苦笑した。

    それに、茂子がこんな風にひよいと家を出て実家へ帰つたまゝ、十日も二十目ももどつて来ないなんてことは、別に珍らしいことでもなかつた。たゞ、この半年ばかりは落ちついていたのである。もう慣れつこになつている。そのうち又舞ひもどつて来るだらう。来なければ来ないで、それでもちつとも差支へはない。要するに、どうでもよかつた。居ない間が気楽といふものだつた。

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