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    恐らく、房一も他の場合にはこれと似たりよつたりの動作をやるにちがひない、たゞ道平に向ふとこんなに易々とできないのだ。

    房一はむつつりとしたまゝ答へた。

    房一はその時診察用の椅子に腰を下して、ゆつくりと煙草をふかしながら、何気ない風で男の様子に目をつけていた。彼は男の要求する意味を悟つた。たゞ治療をしろ、他のことは見て見ぬ振りをしてくれ、まして他言は無用だ、といふ意味だつた。

    「どこだ、どこだ。もう消えたのか」

    房一が声をかけて回転椅子を押しやると、

    それつきりだつた。相沢からはその後何とも云つて来なかつたし、又向ふから来もしなかつた。けれども、訴訟のことは、たとへその日の相沢の気振りだけだつたにもせよ、房一が進んで聞きたい話ではなかつた。房一は、相沢といふ男からは、極端にむら気な、何か容易に手につかめないもどかしさを感じていたが、同時に、一脈の執拗さを受けとつていた。それだけに、競馬場でのあのくるくると廻るやうな、速い、曖昧な云ひ残しが、ふしぎに印象を残していた。

    「あんたの犬かね」

    まさしく、それは房一の癖だつた。何か用がとぎれた時、この廻転椅子に腰を下すや否や、肥満して幅の広い体躯の房一には窮屈さうに見えたが、案外しつくりと云ふに云はれぬ掛心持かけごこちがあると見えて、そのまゝ彼は今云つたやうな姿勢とぼんやりした考へに落ちこむのである。それは何かはまりのいゝところがあるらしかつた。真新しかつた時の天鵞絨びろうどの輝きこそなくなつたが、それはまだ円々としたふくらみを持ち、毛並みの上にかすかにできた掛癖の痕は、それが布地のいたみを感じさせるよりも、もうかなり自分の身体に合つてくれたといふ馴染深なじみぶかさを感じさせた。だが、それは又同時に、河原町に帰つて以来の彼の生活を、その短くもあれば永くもあるやうな、まとまりのあるやうなないやうな一年あまりの月日を、多少とも何気ない風に示しているとも云へた。

    徳次は房一が顔を洗ふ間傍に立つて眺めていた。それからふいに訊いた。

    顎から後頭部にかけてと背部と二所を大きく繃帯でぐるぐる巻きにされた男は、やがて待合室へつれて行かれ、ごろりと転がされた。はじめからしまひまで一言も口を利かなかつた。

    「どういたしまして。お茶位さし上げんと」

    房一は擽くすぐつたさうな顔をしていた。

    「私もこれで元は法律書生でしてね。司法官か弁護士試験でも受けるつもりで、神田の私立大学に通つていたもんです」

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